【金子正男】日本ご当地アイドル活性協会代表の半生インタビュー!人気文化人を多数輩出する芸能事務所にタレント所属~約20年のエンタメ人生に関する100のキーワード本邦初公開

3月1日に東京都の総合芸能プロダクション「カロスエンターテイメント」に日本ご当地アイドル活性協会代表 金子正男(48)が文化人枠としてタレント所属する。テレビ局、映画会社、音楽会社と約20年渡り歩いた経歴を100のキーワードをもとに答えてもらいました。 

 

【エンタメDr.金子のタレント名で海外へ進出したいです】

 ―― このたびは芸能事務所所属おめでとうございます

金子 ありがとうございます。3月1日から総合芸能プロダクション「カロスエンターテイメント」に文化人枠タレントとして所属させていただきました。以前から複数の芸能事務所さんからお声がけ貰っていたのですが、今回「カロスエンターテイメント」代表の人柄と熱意に心打たれて、専属契約をさせていただきました。

https://kallos-entertainment.com/?ac=proe&id=390

 

―― 今後はどのような活動をしていきたいですか?

金子 今まで地方で活躍する日本のアイドルさんの活動を応援してきました。日本のアイドル文化を海外に根付かせ、日本と海外の交流を強化していきたいと思います。さらにエンタメ文化を“教育”として様々な人に役立ててもらいたいなあと思っております。これを機に本名の「金子正男」とは別にタレント名「エンタメDr.金子」として活躍の場を広げていきたいと思います。

 例えば社長をしながらタレント業をしたい方を応援したり、芸能人に教えていたメソッドを企業研修に使ったり、教育本として誰でも“キレイに“ “魅力的に“ “集客を集める方法” を広げていきたいと思います。

 いろいろな方に役立ててもらいたいなあと思っております。ゆくゆくはスマホで多言語翻訳機能が発売されている現状を利用して、協会が持っている知恵や人脈、マニュアルを海外へ広げていきたいと思っております。

 

―― 「エンタメDr.金子」のタレント名のこだわりは?

金子 海外進出を見越してがありますね。本名を英語にしたら「MASAO KANEKO」となりますが、「エンタメDr.金子」なら「Eentertainment Dr.Kaneko」(エンタメ博士の金子)、略してEDKで海外で分かりやすいし、カッコいいかなあと(笑)。あと西川美和監督の「ディア・ドクター」という映画が昔から好きで。そこからも来てますね。笑福亭鶴瓶さん扮する村で唯一の医師が失踪。警察の捜査がはじめるなか医師の資格がなかったことが明らかになっていくストーリー。内容は何ともやるせない話なんですが、最後まで愛を感じる映画で。決して許されることのないことなんですが、誰もやる人がいないなら自ら動き出す現在の無医村・高齢化時代が、今の自分に対して「お前もなにかやることないのか?」と言われているようで。私も20年以上お世話になったエンタメの技法を困っている人や笑顔がない人に向けられないかなあと。

 

【学生時代は目立ちたがり屋というよりか、人を喜ばせたがり屋でした】

―― 金子さん100のキーワードを出してもらいエピソードを聞かせていただきます。高校の頃からお話お聞かせください。

金子 高校時代はフジテレビブームで女子アナウンサーがバラエティー番組やトレンディードラマに出ていた時代でした。そのなかで「中井美穂さん」[1] や、「近藤サトさん」[2] が卒業した日本大学芸術学部、通称「日芸」に憧れを持ちました。また「ひとつ屋根の下」「101回目のプロポーズ」とヒットドラマを量産していた放送局で、いつか!自分もヒットプロデューサーになろうと考えてましたね。

 実は日本大学芸術学部放送学科に進学して「テレビ制作実習」「ラジオ制作実習」「CM制作実習」を受講する他に2年間「アナウンス演習」も受講してました。TBSで長年ニュースキャスターをされていた「新堀俊明さん」[3] から発声練習、正しい日本語、インタビュー力、表現力などみっちり教わりました。

 高校3年のとき実は理系だったんです。もともと日本大学理工学部で物理か数学の勉強したかったのですが、附属の高校に通っていたので理系の成績で芸術学部を受験できるとなり。当時国語が偏差値30代で壊滅的に作文能力がなかったので、高校の先輩でエイベックスで活躍された「中谷学路さん」[4] の紹介で、元テレビ新潟アナウンサー「林妙さん」[5] から小論文の勉強をみっちり受けました。

 

―― 続いて大学時代は?

金子 大学時代は映像サークルと野球部とインラインスケートサークルに所属しておりました。野球部はバリバリの運動部で入学すると学ランを着させられて運連応援団部に強制参加させられるんですよね(笑)。授業の合間に校内の広場で「日大節」の練習をしたり「応援団●●の舞」という複数の応援歌を歌って舞ってました。まあ歌うというより怒鳴るですが。1年生は最下層、2年生はリーダーで1年生を教える立場、3年生はまとめる管理職的な立ち位置、なんか人生の縮図を学びましたね。お酒の飲み方、上級生との付き合い方、OBの諸先輩のおもてなし方。そういうお陰もあって人手が足りない時、テレビ局のアルバイトや運動部大学生という立ち位置で番組出演の話もよく来ました。私の友人とかは早朝に「めざましテレビ」のカメラアシスタントをしてから1限目の授業に来てましたね。私は毎年、日本テレビ高校サッカーのアシスタントのアルバイトをしておりました。

 「めちゃイケ」の前身の「とぶくすり」大晦日特番にも出ました。一発芸して坊主になって、「ナイナイさん」[6] からメッチャ笑われて。帰りに出演者全員のサインとTシャツもらって。家宝にしております。あと中山秀征さんのクイズ番組も出ましたね。100人のスペシャリストが出演するという番組で私は野球部大学生代表として出演しました。ただその後、出演者の某元チャンピオンが逮捕されてお蔵入りになりかけ。だいぶたった後に、ひっそり短縮版となってお昼に放送してましたね。日芸にいたおかげでアルバイトの話を尽きませんでしたね。

 

―― 目立ちたがり屋だったのですか?

金子 目立ちたがり屋というよりか、人を喜ばせたがり屋でしたね。頭の中に演出家の自分がいて「あ~、今ここでこうしたら人が喜ぶのかなあ」って思ったらテレビに出て坊主になって一発ギャグしても構わないみたいな。成人式も地元朝霞市の代表を勝手出て、成年の主張ならぬ「成人への主張」と大人に対する文句、世間のヒズミを吐露して。こんな大人にならないよう皆も頑張ろうと布袋寅泰さんの「さらば青春の光」を熱唱してスピーチしました。昔から普通のことをするのが嫌だったのと、最後にニヒリズムを隠し味程度に入れるのが好きでした。脚本家の「野島伸司さん」[7] に傾倒してましたからね。「高校教師」「聖者の行進」「人間・失格」などセンセーショナルなドラマが大好きでした。

 

―― 大学時代の交友関係はいかがですか?

金子 運動部連盟で仲良かったのが剣道部でNHKで大河ドラマ、朝ドラのプロデューサーをしている「川口俊介」[8]、同じく剣道部で「パパとムスメの7日間」「弁護士のくず」脚本家「荒井修子」[9] 。自動車部で写真家の「清水隆行」[10]、スキー部で元山陰中央テレビアナウンサー「竹内こまえ」[11]、硬式庭球部で元青森放送アナウンサー「小林あずさ」[12]、1つ上の先輩に硬式庭球部でセントフォース所属アナウンサー「中田有紀さん」[13] 、殺陣同士同士会で野際陽子さんの娘「真瀬樹里さん」[14] がいましたね。野球部で言えば1つ下の後輩が「サイタマノラッパー」「64(ロクヨン)」「ブギウギ」に出演する俳優の「水澤紳吾」[15] で、仙台育英でバリバリ甲子園を目指していた後輩だったので心強かったですね。1度草野球で音楽学科だった徳光和夫さんの息子さんと対戦したことありました。

 大学入って1年生の新歓コンパというのがあって2年生が班別で関わって。あまり詳しくは書けないのですが伝統的に2年生が1年生と偽って各班に偵察隊として紛れ込むんです(笑)。そのとき金子にいた偽1年生がEXILE、安室奈美恵、倖田來未のMVや『HiGH&LOW』シリーズ監督をする「久保茂昭さん」[16] でした。その後、茂さんが作ったミュージックビデオを学内で見るのですが、生まれて初めて「勝てないわ」と思うぐらいに超絶な才能な塊でした。当時は調子に乗っていたので私も見様見真似で自主制作映画やMVを作ってました。学校の機材、スタジオ、編集室借りたい放題でしたので。フルで使い倒してました。短編映画の主役でお願いしたのが、吉本興業で、雨上がり決死隊マネージャー「小池花恵さん」[17] でした。

 所属していた映像サークル「月面工房」には、日本一鉄道番組を作るテレビプロデューサー「山守文雄さん」[18](創設者)、『やすらぎの郷』プロデューサー「河角直樹」[19] にお世話になりました。ここのサークルでは映像を作る遊び心をたくさん教わりました。

  

―― 大学卒業後も幹事をされていたそうですね?

金子 はい。野球部のOB幹事をしておりました。野球部OBには財津一郎さんの息子さんで日本テレビの「財津功さん」[20] や、「毒蝮三太夫さん」[21]、「松崎しげるさん」[22] が在籍されておりました。あと今でも放送学科教授の「鈴木康弘先生」[23] や、映画学科教授の「大谷尚子先生」[24] とは交流を持たせてもらっております。鈴木先生は「映像制作」の担当先生で、大谷先生は野球部マネージャーの1つ上の先輩でした。

 

―― 大学時代の恩師と言える先生はいますか?

金子 たくさんいますが敢えて3人あげますと。ドストエフスキー、宮沢賢治の研究家の文芸学部教授「清水正先生」[25] からは「大学卒業してから作家になりたいと思うやつはなれない。作家になる人間は今、作家なんだ、と。逃げ道を作るやつは夢をつかめない」と叱咤されました。厳しさの中にとても優しさを持った先生でした。

 2人目は博報堂で「アサヒビール」のCMを築き上げたCMプランナー「萩原高先生」[26](通称はぎさん)。マーケティングのイロハを教わりました。「萩ゼミ」にはCM業界で活躍する諸先輩方がいました。OB会の集まりもあり、卒業後も大変お世話になっております。『エンタの神様』『マジカル頭脳パワー!!』『投稿!特ホウ王国』を手掛ける日本テレビの「五味一男さん」[27] も萩ゼミの先輩で今でも色々アドバイスを頂いております。五味さんには「桜塚やっくん」が亡くなったとき金子がプロデューサーをしていた追悼番組にゲスト出演していただきました。奇しくも五味さんは、桜塚やっくんの名付けの親でした。

 3人目は脚本家「君塚良一さん」[28] で日芸の先輩にあたります。大学5年時に「踊る大捜査線」という授業を開いてくれて、織田裕二さんやスタッフさんが授業をしてくれました。またフジテレビの元社長で当時プロデューサーでした「亀山千広さん」[29] から企画術について色々教わりました。印象的なエピソードとしたら木村拓哉さん主演の「眠れる森」を脚本家「野沢尚さん」[30] とどう作ったかの話でした。実際に使っている企画書や台本直しを見させてもらったり、学生の私としてはドキドキハラハラで「もうドラマを作る道しかない!」と思わせていただきました。亀山さんから頂いた言葉で忘れられないのが「金子君、プロデューサーに必要なのは何を作るかじゃない、何を面白がるか、だよ。何を作るかは?プロが集めればできてしまう。ヒット作品に大切なのは勘違いを超える情熱ですよ」と。あと君塚さんからは「プロになりたいなら授業で教わったことを忘れて書いて下さい」と、師匠の「萩本欽一さん」[31] の例を分かりやすく出してもらい、「あ~モノ作りは理屈だけじゃないなあと。運を呼び込む欽言の大切さ」を教わりました。

 

 

【渡瀬恒彦さんから貰った魚肉ソーセージの味、忘れられません】

 ―― 映像の世界にはどう飛び込んでいくのですか?

 金子 日本脚本家連盟が行っているシナリオスクールに大学4年生で通いはじめます。もともと4年間で映像の勉強をしてきたのですが、就職活動していて何かが足りないなあと思ったんですよね。ありがたいことに出版社、テレビの制作会社に内定はもらっていたのですが、このまま社会に出たら何の生産性を生まない大人になってしまうなあと。そこで1から勉強をし直そうと当時「夏子の酒」「ラブジェネレーション」で売れっ子だった「尾崎将也さん」[32] の門を叩きました。尾崎さんからは文章の「てにをは」から教わりました。おかげで30歳になる頃にはコンクールで惜しいところまで行けるようになり、この業界を続けられている恩人の1人です。その後、朝ドラ『梅ちゃん先生』をはじめ『アットホーム・ダッド』『結婚できない男』『特命係長 只野仁』など話題のドラマを次々と生み出す大先生になりましたね。毎回学校帰りに説教されたこと今でも糧になってます(笑)。当時同じ教室には「はぐれ刑事純情派」「温泉へ行こう」「ストロベリーナイト」「トイレの神様」「佐賀のがばいばあちゃん」の脚本家で吉本坂46メンバーの「旺季志ずかさん」[33] もおりました。旺季さんからは「金子君、才能あるから演劇の脚本を書きなよ!」とよく言ってくれたことを覚えてます。学校に通っている頃から色々なドラマを書き始めていた頃で現場の話を身近で教えてくれましたね。

 

―― 大学は留年したんでしたよね?

金子 そうです。日本大学芸術学部で4年間「映像バカ」になり過ぎたなあと思いまして。1年間は自分の苦手なことをしてみよう!と留年しました。シナリオ学校の他に、速読教室に通いました。SRS速読法で医学博士の「栗田昌裕さん」[34] が教えてまして。もう目から鱗でした。もともと国語が偏差値30代の私にとっては本を10ページ読むと頭痛がする体質で。日本語を受け入れなかったんですよね。でも栗田先生から教わるとスイスイ頭に入ってきて。すぐに本を読めるようになっていました。実はこのときの経験がテレビ東京、角川映画(現KADOKAWA)で役に立つことになります。直ぐ読んでアウトプットできるようになったので企画書の達人になる訳です。「人生、遠回りが近道」だと昔の人は良い事を言ってくれたものです。尾崎先生の文章術、栗田先生の速読術の両方がなかったらプロデューサーにはなり得なかったでしょうね。

 大学では他学部の授業を受けに行きました。幸い日本大学だったので理由を言って授業に潜り込みました。特に法律、医学、建築の勉強が新鮮で楽しかったですね。医学部では日本酒の美味しい飲み方の授業が記憶に残っております。今でも実用しております(笑)。法律はのちに2時間ドラマの企画を立てるときに役立ちましたし、建築は「宅地建物取引士」の資格を取ろうと思うキッカケにもなりました。世の中ルールなんだなあ、ルールを知らないと損すると痛感しました。芸術学部は逆にルールなんてぶっ壊せ!って逆の世界でしたから。

 

―― 社会人のお話をお聞かせください

金子 大学5年で卒業後、紆余曲折してフリーランスの制作者として2時間ドラマ、Vシネマの現場で働くことになりました。いろいろ辛いことばかりでしたが放送オンエアーを見たり、映画のエンディングロールに自分の名前を見つけたり、TSUTAYAでパッケージを発見したりすると全部苦しいことが吹っ飛んじゃいましたね。当時は主に弁当の手配、ロケスケジュールを事務所にFAXしたり、車止め、撮影場所を決めたり、車の運転手をしていました。今考えるとよくやってましたね。

 現場中に嬉しかったのは俳優さんが金子のことを覚えてくれていることでした。当時20代のあんちゃんにも関わらず、可愛がってくれたのが日本大学鶴ヶ丘高校の先輩。「岩城滉一さん」[35] 、「鶴田忍さん」[36]。「渡瀬恒彦さん」[37] も「君を見ていると東映俳優部の新人時代を思い出すよ」と。すごい気配りする方で辛そうな顔をしていると激を飛ばしてくれました。今でも忘れられないのがドラマの軽い打ち上げのとき魚肉ソーセージをむいてくれて「これ食べなよ」と言ってくれたときですね。「あ~、この人についていこう!」って心奪われました。主役の器というか渡瀬組の頭だなあと。良い作品って主役に惚れないとスタッフは実力以上の仕事をしないんですよね。渡瀬さんに周りはいつでも現場に活気と良い緊張感がありました!

 

 

【打ち上げのときにテレビ東京プロデューサーに飛び込み営業。カバンに忍び込ましていた脚本が人生を変える】

 ―― テレビ東京のお話をお聞かせください

金子 「出目昌伸監督」[38] 「田中好子さん」[39] 主演の「最後に愛を見たのは」がテレビ東京製作だったんですよね。出目監督といえば巨匠・黒澤明監督の助監督で厳しいなかでも斬新な演出方法で勉強になりました。田中好子さんはオーラというか良い意味で職業女優の凄さを感じまして。すごく良い作品になって金子も頑張ろう!と思えました。当時シナリオスクールでばんばん脚本を書いていたので常に2~3本は企画書と脚本を持ち歩いていたんですよね。現場にいればチャンスあるかと(笑)。そこで打ち上げのときテレビ東京の「橋本かおりプロデューサー」[40] に読んでください!と直談判しました。橋本さんからしたら「誰だ?こいつ」って感じですよね。スタッフリストで見れば末端で話すこともできないお偉いさんな訳ですから。そのへんは昔から物怖じしない性格なので(笑)。結局その場で読むことなく企画書と脚本を手渡しして、その場は終わりました。翌日「明日から来なよ」と電話きました。そのときは自分の脚本が認められた!と喜びましたが、あとあと理由を聞いたらADが飛んじゃった(ばっくれた)から声をかけたそうです(笑)。結局ドラマ制作部でAD兼 雑用を担当、結局5年間お世話になることに。

 

―― テレビ東京ではどんなお仕事をしていたのですか?

金子 企画書を書けたのと映像編集できたことが重宝されました。当時のテレビ東京は7年間、謎の新入社員を取らなかった時代で制作部が中年ばかりだったんですよね。今では「ゴットタン」「あちこちオードリー」総合演出ほか「オールナイトニッポン」パーソナリティの「佐久間宣行さん」[41] が新人ADであくせく働いてましたね。丁度、佐久間さんとは同じ学年で夜中に愚痴りあってました。若いADがいないということはやりたい放題で。たくさんドラマの企画書を書きましたし、たくさん番組の編集もしましたね。もう楽しくて楽しくて。ほとんど家に帰ってませんでした。最初はドラマ部の雑用兼ADだったのが、やらなくてはいけない仕事を早くやってしまい他に仕事くれアピールがすごい金子だったので。当時の「不破敏之チーフプロデューサー」[42] から予告制作、ミニ番組、特番で流れるVTRをやってみろと言ってくれました。その後、不破さんとは毎週1~2回、六本木に連れて行ってくれる仲で、映像制作についてたくさん教えてくれました。1番記憶に残っているのが「金子、映像に理屈はいらない。気持ちよければいいんだ。深く考えるな」と。すごく勇気づけられましたね。佐久間さん同様、技術部に「北村嘉邦さん」[43]、ネット関連のブロードバンド部に「吉澤有さん」[44] がいまして。みんな年齢近くて、物作りに飢えていました。当時のテレビ東京はBSジャパン(現BSテレ東)開局したばかりでしたので若手にチャンスがある時期でタイミングが良かったのかもしれませんね。

 あとドラマ部は約10人程度のプロデューサー集団の部署だったのですが、ドラマだけではなく他番組を兼任している人が多かったです。ドラマADで採用されたにも関わらず、歌番組やバラエティー番組の話を聞けるチャンスがあったのは良かったですね。「ヤンヤン歌うスタジオ」のディレクターだった「小川治さん」[45]、「只野研治さん」[46]、橋本かおりさんから聞く当日の逸話は昭和の豪快さを感じ、勉強になりました。ドラマ部部長の小川さんは「出没!アド街ック天国」の初代プロデューサーで物作りに対する姿勢、情熱、見えないところで努力する大切さを教わりました。小川さんから頂いた言葉で印象的なのがアド街のプロデューサーを卒業するとき「金子、俺は一緒に仕事したい人とは写真を撮らないようにしているんだ。一緒に撮っちゃうと二度と仕事が出来ないようになっちゃうかなあと、願掛けだな。だから愛川欽也さんとは写真を撮らず、新しいドラマで一緒に仕事するんだ」と。やっぱこの人すごいなあと痛感しました。

 テレビ東京時代で切っては切り離せない恩人の先輩は「岡部紳二さん」[47] 、岡部さんは豪快な方で「好きにやれ、責任はオレが取る」という兄貴分の方で、不破さん同様に週1は六本木に連れて行ってくれました。よくよく考えると不破さんから、岡部さんから、小川さん・只野さん、橋本さんからお酒に誘われるので週に4~5回は夜の六本木、麻布十番で美味しいお酒を飲ませて頂いておりました(笑)。もちろん就寝はテレビ東京の仮眠室。シャワーも完備していたので快適でした!

 岡部さんは連続ドラマ「ドラマ24」と「武田鉄矢さん」[48] の新番組「解決!クスリになるテレビ」の担当となり、たくさん現場に連れていってくれました。武田さんの番組ではホームページ担当もさせてもらって月に2回の収録に立ち合い、現場記事やネット連動新企画をやらせてもらいました。先程お話に出た吉澤君と1番アクセスの多い番組ホームページを作ろうと画策して、どの健康情報が1番か?逐一順位が出るシステムで煽りました。見本にしたのは当時流行っていた会員サイトでした。もはや番組と違うネタで盛り上がるようになり、1回だけですがアド街を越えて週間アクセスランキング1位になりました(笑)。岡部さんには「勇気」「責任」を教わりました。特に初めて北朝鮮による日本人拉致問題のドラマを局制作で作ったときの担当プロデューサーが岡部さんで。放送までに多くの壁があるなか毅然たる態度で良質ドラマを作る手腕は勉強になりました。

 「関光晴さん」[49] はテレビ東京で最初の上司でした。すごく頭の切れる方で、関さんからはモノづくりもそうですが、人間として必要なことや気配り、目配り、心配りを教わりました。たくさん怒られましたが、今では感謝しております。その後、関さんはヒット番組「THEカラオケ バトル」を立ち上げることになりました。

 同世代で記憶に残るテレビ東京の人でいえば「高橋弘樹さん」[50]、「篠原裕明さん」[51]、入社当時の高橋さんはジャニーズばりの美少年でしたね。篠原さんは今と変わらず存在感あるADさんでした(笑)。アナウンサーでいえば「解決!クスリになるテレビ」の「森本智子さん」[52] ですかね。あと当時のドラマ部とアナウンス室は隣同士だったので「水原恵理さん」[53]、「山本薫さん」[54]、新入社員だった「倉野麻里さん」[55]、「大江麻理子さん」[56] と他愛もない話をしてましたね。「ワールドビジネスサテライト(WBS)」が終わった後の感想とか、今後こういう番組を作りたいですよね、とか。アナウンサー目線からの物事のとらえ方が勉強になりましたね。

 

―― 他に印象的な出来事ありましたか?

金子 「西村京太郎先生」[57] に会えたことですね。2時間ドラマを担当していたので番宣で動く先生を見て感動しました。あと小中高大、野球をやっていたので仕事がないときはテレビ東京の草野球に助っ人で呼ばれまして。「中山秀征さん」[58] からヒットを打ったことは良い思い出です。

 

【30歳で転職したおかげでチャンスがたくさん転がっていました】

―― 映画会社に転職されるお話をお聞かせください

金子 30歳で縁あって角川映画(現在KADOKAWA)に入社いたしました。企画制作部という部署で入社当時は「ガメラ」「着信アリ3」「妖怪大戦争」を作ってました。映画製作の他に、調布にスタジオ、全国に映画館が約20カ所、アフレコ編集スタジオ、さらに角川書店との連携と世界が一気に広がりました。韓国の会社とも提携して合作ものを増えまして。約5年間でいろいろな経験をさせてもらいました。当時の社長「黒井和男さん」[59] は同じ大学の先輩で、すごく可愛がってもらいました。黒井さんは生きる映画博士で授業を聞いているようで楽しかったです。毎年、黒井さんが学校で授業するんですけど。黒井さんの学生に勧める映画を30分にダイジェストで見せて残りの1時間解説をするんです。その30分のダイジェストを毎週編集させてもらい、それが今となっては勉強になりましたね。最低3回は本編見てから編集しますので。

 

―― 印象に残る現場はありましたか?

金子 入社前に「蜷川幸雄さん」[60] 監督の「青の炎」を撮影所で見させてもらったんです。主演は嵐の「二宮和也さん」[61]、「松浦亜弥さん」[62] で、蜷川監督のパッションあふれる演出が今でも忘れられません。二宮さん、松浦さんとディスカッションしながら作っていくモノづくりの姿勢は、いまも金子がタレント指導するとき思い出す光景ですね。蜷川監督の身ぶり手ぶりのパッション!後世の伝えたいことです。

 入社して雑用、プロデューサーのアシスタント業が主でした。当時「着信アリ」のテレビ版が進行していて、「秋元康さん」[63] の事務所に台本を届けるのが仕事でした。台本を渡すと映画の企画書が入った封筒をもらって帰る、新鮮でした。AKB48劇場にも行かせてもらいましたね。2期生のKチームが始動した頃でチャンスがあれば映画にAKB48メンバーを使ってよ、という売り込みの時代でした。前田敦子さんが圧倒的な存在感でしたね。

 野球を小中高大やっていたので「おくりびと」でアカデミー賞外国語映画賞をした「滝田洋二郎監督」[64] の「バッテリー」に参加できたのが嬉しかったですね。当時のスタッフで野球経験者がいなかったのでオーディションに参加したり、野球練習に付き合ったり、滝田監督とゴハンを食べながら野球レクチャーしたり。「林遣都さん」[65] にピッチングのフォームを教えたのが良い思い出ですね。

 品川庄司の「品川祐さん」[66] 初監督「ドロップ」も思い出深いです。初稿のシナリオが4時間分の分量で届いて。メールできては製本して、メールで来ては製本しての繰り返しで上映した原型になるまでの過程が思い出深いです。

 大御所でいうと脚本家「竹山洋さん」[67] が常駐する神楽坂の宿に原稿を貰いに行くときは緊張しましたね。何百枚となる手書きの原稿をもらって会社に戻りタイピング。そのデーターを印刷所に入稿するまで重責でした。「山崎豊子先生」[68] の直筆もしびれました。この原稿が映画史を変える作品なんだなあと撮影前から感じてました。

 当時角川映画の上司で部長だった「佐藤直樹さん」[69] は豪快な方でした。企画会議でも夢のある話をしていただき、現在は日活の社長をされております。佐藤さんが角川映画退社後に来たのが「男はつらいよ」「釣りバカ日誌」「息子」「学校」「たそがれ清兵衛」など数々の名作映画をプロデュースしてきた「中川滋弘さん」[70] でした。何度か「山田洋次監督」[71] との企画会議に同席させて貰ったのですが、山田監督と中川さんの話が美しいこと、使っている日本語といい、高度な会議の中身といい、もうカルチャーショックでした。特に印象的だったのは山田監督の喋りが落語のように面白く、それを横で脚本家がメモしていくんですよね。その内容に関して中川さんがアイデアやヒントを出して膨らましていくんです。結局その内容自体が1冊の本になってしまうんですよね。もう衝撃的な面白さでした。目の前で手品を見ているようで。華麗で美しく。その打ち合わせ見て、もっと勉強しないと一流の人と仕事できないぞって思い知らされました。映画をたくさん見ることもしかり、映画以外の雑学や歴史、政治、経済もしかり。

 

―― 30代だと若手に入る部類でしたか?

金子 お陰様で30歳で転職したのでチャンスがいっぱい転がってました。特に本体の角川書店は漫画「涼宮ハルヒの憂鬱」「ケロロ軍曹」「らき☆すた」のアニメが好調でしたので若年層向けのライトノベルを映画化することに力を入れていました。燃えましたね~。たくさん角川書店の原作を読んで、たくさん企画書を作りました。同時に若手の俳優を見つけては自分の売り込みに行ってました(笑)。「一緒に映画作りましょう!」と。すごくラッキーだったのは角川映画は複数の映画を同時に撮影していたので仕事したい俳優さんへ会いに行けたことでしたね。当時「Dear Friends」で体当たりの芝居が評価されて話題となった「北川景子さん」[72] と一緒に仕事をしたくて撮影現場に行きましたね。20歳の誕生日に合わせて「北川」というお酒をプレゼントしたことが思い出深いです。

 テレビ東京時代からずっとこの人としたいなあと思っていた女優さんがいて。角川書店原作のライトノベルで映画化にこぎつけたんですよ。台本もできて衣装合わせの日取りも決めようという矢先に不祥事を起こして芸能界休止と。今でも夢に出てきますね。その女優さんが大きなスクリーンで活躍する場面を。

 

―― 撮影現場のお話を聞かせてください

金子 初めて映画のプロデューサーをしたのが「学校の階段」という角川書店原作の学園ドラマで。まず仕事をしたい人と思ったのが、映画「タイヨウのうた」で主人公の友人役で熱演した「通山愛理さん」[73]、ドラマ「アキハバラ@DEEP」で熱演した「小阪由佳さん」[74] でしたね。2人の強烈なキャラクターにはさんで「ケータイ刑事 銭形泪」の「黒川芽以さん」[75] が翻弄される絵は容易にできました。若手俳優がたくさんいる現場で、とても楽しかったです。映画初日は超満員のお客さんが駆け付けまして。

 海外の合作作品を3本経験しました。日本と中国の「李香蘭」、日本と韓国の「天国の樹」「初雪の恋~ヴァージン・スノー」です。「李香蘭」は「上戸彩さん」[76] の女優根性を勉強しました。慣れない中国語、5時間に渡るロングドラマ、重責のなか怪演の連続。編集の仕上げ時では「岸辺のアルバム」「長崎ぶらぶら節」「千年の恋 ひかる源氏物語」を手掛けた「堀川とんこう監督」[77] からモノづくりの心構えについて教わりました。

 「天国の樹」は韓国SBS放送とフジテレビの連続ドラマで、とにかく時間に追われた作品でした。私の仕事は韓国から台本が届いたらキャスティングをする仕事。さらに総勢50人ほどの日本と韓国スタッフの間に入って連絡事項を行ってました。撮影の合間に主役の「イワン」[78]、「パクシネ」[79] に日本語のイントネーションを伝えたりもしていました。とにかく現場が楽しくなってほしいと毎回台本に「すぐ使える日本・韓国語の指差し手帳」を作ってましたね。長野県の新雪が積もる場所のロケのときは死ぬかなと思いました。監督のイメージは「冬のソナタ」のような大自然の白銀の雪。そんななか送られてきた台本は5日後に体育館で100人の生徒に囲まれて柔道大会のシーン。「え!?今からエキストラを調達するの?しかも役柄が高校生」。東京から呼ぶエキストラでは足りなかったので、長野の大学や駅前で若い男女に声かけしてスカウティング活動を必死にしました。もう精神的にもギリギリでしたね。結果は良いシーンになりましたよ、DVDになってますので見てください。あと「美しき日々」「美しき日々」を手掛けた「イ・ジャンス監督」[80] は、こだわる方で何度も現場で俳優にダメ出し。最終的に「金子が演じろ」と、実は3役、わたし俳優として出演しております(汗)。

 「初雪の恋~ヴァージン・スノー」は韓国で歴代動員記録を塗り替えた「王の男」主演の「イ・ジュンギ」[81] と、NHKの連続テレビ小説「純情きらり」の撮影を終えて、NHK大河ドラマ「篤姫」を控えた国民的トップ女優「宮崎あおいさん」[82] とのダブル主演でした。とにかく多忙を極める俳優同士で、台本が出来ては早朝の羽田空港まで車で向かい、飛行機に乗る直前に手渡しするという綱渡り状態で。今となっては良い思い出です。印象的な出来事は京都の四条大橋の撮影ですね。宮崎あおいさんのスイッチの入れ方が本当に漫画のようにすごくオーラが見えるんですよね。一気に観光客が「宮崎あおいちゃんだ!」って。体がゾクソクってしましたね。

 

―― 2時間ドラマの雰囲気はどんな感じですか?

金子 シリーズものが多かったですね。「プロデューサー補」という立ち位置で、主要キャスト以外のキャスティング、オーディションの準備、エキストラ手配、放送局へ納品スケジュール作成、編集所の手配など。主に事務所とスタッフの相談窓口みたいなものですね。スタッフが足りないときは車も止めますし、移動車の組み立て、機材運びの手伝いもします、ま~、何でも屋さんです。

 「駐在夫婦」シリーズでは「研ナオコさん」[83]、「地井武男さん」[84] にお世話になりました。研さんは気遣いの達人で特殊なオーラを放ってました。地井さんはお芝居好きがはふれたムードメーカー。駐在警官役なので制服を着ているんですけど、地方ロケの場合、その格好でゴハンに行って地元の人とすぐ仲良くなってましたね。

 「死体は語る」では「高島礼子」[85] さん、地井武男さんのコンビ。高島さんは座長的なノリで現場を盛り上げてましたね。「吉田啓一郎監督」[86] の愛称も抜群で撮影が常に巻いて終わっている印象でした。吉田監督からも撮影に関していろいろなことを学ばせていただきました。このシリーズでは「未成年」からのファンの「北原雅樹さん」[87] をキャスティングできて、今でも仲良くさせていただいております。

 

【ピースの綾部さんの男気には感動しました】

―― 独立を視野に入れたキッカケは?

金子 タイミングが良かったんでしょうね。テレビ局で5年、映画会社で5年、好きなことをやらせてもらったんですよね。その中で職業プロデューサーは向いていないなあと思いました。作るプロを目指すなら先輩方にたくさん壁がいるので。ビジネスプロデューサーのプロになろうと。具体にいうとお金から営業、宣伝、海外、イベント・コンテンツ事業、メディアミックス、グッズ展開などオールジャンルで仕掛けられるプロデューサーを視野に入れたいと、年に100本以上の映画、Vシネマを手掛ける会社に転職しました。たまたま入社当時、音楽事業に進出しはじめてまして、まさか音楽業界でも仕事するとは思ってもいなく。入社前から「3年で独立しますので。社長のカバン持ちから始めさせてください。全てを盗みます」と豪言してました。結局独立まで5年かかっちゃいましたが(笑)。

 

―― インディーズ会社に入って苦労ありましたか?

金子 全然違いました。大きな組織と比べて何もかも1人でやらなくれはいけないんですよね。恥ずかしながら予算見積書、契約書、請求書の作り方を初めて学びました。前会社ですと他部署がやってくれましたから。あと1人1部署方式ではなく1人3部署でも4部署でも掛け持ち方式でした。私の場合、制作の企画書を作りながら、舞台挨拶の台本を作って、劇場に作品の営業をしながら帰りのショッピングセンターでアーティストのLIVE営業もして帰ってくる。お昼や夜ご飯で行った先では自社の映画作品、アイドルのチラシを置いてもらってポスターを貼らせてもらうなど。何役も兼ねてました。平日は自分の仕事で土日は他部署の助っ人要因はざら。何かしら初日舞台挨拶、音楽部のライブが入っているので。右手でスチールカメラ、左手でビデオカメラ、終わったらライブハウスで前説、チェキ撮影係と目まぐるしい1週間を送っていました。

 

―― 印象に残る現場はありましたか?

金子 「GOTH」という映画で「本郷奏多さん」[88] が主役でした。当時本郷君は高校3年生で大学受験の悩みを聞きまして母校の話をしたんですよね。「写真学科なんて面白いよ」と受験のコツをアドバイスしまして。その結果かどうか分かりませんが見事、日大芸術学部写真学科に入学して嬉しかった記憶があります。

 「ひとりかくれんぼ」という映画で「河北麻友子さん」[89] が初主演を務めまして。渋谷で2週間公開していたうち、プライベートで半分ぐらい遊びに来てくれまして。当時高校生だったので友達つれて。すごく嬉しかったですね。当時からフレンドリーで「アメリカから来たので日本語まだ勉強中」とチャーミングに話されておりました。

 あと宣伝担当をしていると主演俳優や主題歌のアーティストさんと一緒に売りましょう!って頑張るケースが多かったです。例えば「湾岸ミッドナイト」では、元E-girlsの「Amiさん」[90] が「この曲は特別なんです。なんでもします」とすごく宣伝に協力的でした。今では考えれませんが崖っぷちに追い込まれていた状態で。LDHに移籍後、一発目の曲でしたので気合は半端なかったですね。

 吉本興業の芸人さんともたくさん映画を作りましたね。特に印象的なのでがピースの「綾部祐二さん」[91] で「喧嘩番長」の主役をしてもらいました。当時の綾部さんは超売れっ子だったので劇場とテレビ局の往復でなかなかマネージャーさんはスケジュールを貰えませんでした。仕方なく私は自力で吉本芸人さんが漫才をする劇場前でチラシ配り(無許可なので終わったら逃げるように走って帰るの繰り返し)。劇場スタッフには嫌な顔をされていました。そんなとき、たまたま劇場から出てきた綾部さんにそのことを伝えたんですよ。そうしたら「俺は聞いていない、全然手伝うよ」って。その日から東京の劇場には大手を振って入れるように声をかけてくれて。綾部さんの出番があるときは渋谷∞ホールのステージに上げさせてくれて宣伝隊長として登場もしました。色々な場所でたくさん告知させてもらいました。男気にある人でした。

 

―― 音楽の仕事をしはじめたキッカケは何ですか?

金子 映画、舞台のサントラをCDにして売っていたんですよね。そうしたら当時の社長がグラビア事務所さんとアイドルを作ろうと、戦隊ドラマのヒロイン5人をアイドルにしたんですよね。それが「手島優さん」[92] がリーダーの「爆乳戦隊パイレンジャー」でした(笑)。すぐ話題になりテレビ、スポーツ新聞と引っ張りだこ。「美脚戦隊スレンダー」「爆乳三国志」などVシネマと連動してCDアイドルとデビューしていき。だから最初はアイドルというよりドラマスタッフとして入っていたのが、世のアイドルブームでCDや配信が調子よくて。足りないスタッフの補填として呼ばれることが増えていったんですよね(笑)。

 2009年、妹分として現役女子高生10人組ユニットとして飛行機アイドル「ぱすぽ☆」が誕生。あれよあれよとアイドル戦国時代ブームに乗っかり、2011年に「少女飛行」がオリコン史上初のデビューシングル初登場週間1位に輝き、中野サンプラザワンマンライブ、全国ツアー、フランス公演など素敵な景色をたくさん見させてもらいました。奇跡的にですが振付師にまだ無名だった「竹中夏海先生」[93]、作詞・作曲に機長こと「阿久津健太郎さん」[94] の才能が爆発しまして。ブームに乗るってこういことなのかなって肌で感じましたね。当時の金子はブッキングや企業営業をする傍ら、ぱすぽ☆のライブ前説をしていました。竹中先生が名称してくれたんですがステージMC名が「くるくる」で。天然パーマが由来だそうです(笑)。ライブが終わってからもメンバーからマイクを受け取り、ファンが楽しめるような握手会を誘導してました。寂しそうに1人いるファンや馴染めていない若い子を見つけてはステージから降りてマイク実況しながら話しかけて。いじることで1人でいさせさないっていう気持ちが強かったんですよね。この辺は映画の舞台挨拶で100回はMCしていたので場慣れしちゃってましたね。

 

―― ぱすぽ☆をキッカケに鉄道の仕事も増えたそうですが

金子 飛行機アイドルが当たったので次は鉄道アイドルだと「ステーション♪」というグループが誕生しました。もともと鉄道好きだったので、大学の先輩の山守さんが日本初の24時間放送「鉄道チャンネル」を立ち上げると聞き、無償でスタッフとして参加したんです。そこからホリプロ「南田裕介さん」[95] 、JR企画の「手老善さん」[96] 、「ダーリンハニーの吉川正洋さん」[97] と仲良くなり、次々と鉄道に関する仕事が決まっていきました。チャンネル開設したばかりなので新番組作りたい放題で、当時では実験的な番組を作らせて頂きました。山手線のビジョンで色々な遊びに挑戦する企画があって、そこに「ステーション♪」メンバーがアイドル代表で出演していたのを見たときは、さすがに涙しましたね。14万人集まる「鉄道フェスティバル」にもレギュラー出演できて、全国から集まる鉄道会社1社1社にメンバーを連れて営業しに行くんですけど。どの会社も知っていてくれまして。鉄道愛を感じました。

  

【独立すると知って離れた人が多かった。3人だけは「おめでとう」と言ってくれた。今でも恩人です】

―― 独立した後のお話をお聞かせ下さい

金子 独立して真っ先に「おめでとう」って言ってくれた先輩が3人いました。一般社団法人ストリートダンス協会の理事長「福田和美さん」[98] と、「桜塚やっくん」[99] の番組を一緒に作ってくれました株式会社オフィスフロント会長「築城さん」[100]、そして「我極館」の先輩でもあるエイベックス「佐藤浩輝さん」[101] でした。この3人は今でも足を向けて寝れないほど応援と尽力をいただきまして。独立してもやっていけるのは3人のお陰と言っても過言ではありません。

 

―― 最後に言いたいことありましたら。

金子 あとお礼を言うならWWSチャンネルの「小島編集長」[102] ですね。彼は猪のように猪突猛進、自分の信念を曲げず芸能サイトを大きくしました。彼の生き方はカッコいいですし、6年間、小島さんのもとで一流の現場を多く見させてもらいました。そのときの糧が今のタレント講師の源になっているかもしれません。4年間NHK紅白歌合戦の記者で立ち合えたことも財産です。

 それと時代の仕掛け人「仲西一成さん」[103] ですね。仲西さんは常に新しいトレンドを探して能動的に動いていまして。ときには女子大生レポーター集団「Scketto」を立ち上げたり、イベント、カメラマン、キャスティングと幅広くエンタメに関わっています。毎日刺激を受けています。

 長々となりましたが、金子正男という人物は1人では歩けず、こうやって多くの人に支えられながら生きてこれたということです。3月1日から「カロスエンターテイメント」に文化人タレントとしてお世話になりますが、人との出会い、感謝を忘れず、一歩一歩着実に進んでいこうと思う次第です。

 長文でしたが、お付き合いいただき、ありがとうございました。  

▽プロフィール

金子 正男(かねこ まさお)1975年7月6日、埼玉県朝霞市生まれ

【芸名】エンタメDr.金子

メディアプロデューサー/タレント講師/社長をタレントにさせるビジネス

【趣味】少年野球コーチ、キックボクシング、ヘアドネーション

【特技】手相、手品

【経歴】埼玉県朝霞市の八百屋の次男坊に生まれる(兄は中学校校長)。朝霞市立朝霞第五小学校、朝霞市立朝霞第三中学校、日本大学鶴ヶ丘高等学校、日本大学芸術学部放送学科を卒業。

旅行会社で添乗員をしながら脚本家を目指し、脚本家 尾崎将也に師事。2000年、テレビ東京の2時間ドラマ立ち上げスタッフとして参加以後、ドラマの企画・プロットライター、バラエティー番組に携わる。2005年、角川映画(現KADOKAWA)に入社し、約20本の映画、テレビ番組のプロデュースを担当。2007年「日本アカデミー賞協会」会員資格を得る。

2010年、インディーズ映画&音楽会社に転職。制作プロデューサーを中心に営業、宣伝プロモート、国内・海外番販、出資集め、製作委員会を部長クラスで担当。会社員時代は100本程度の映画・テレビ番組・舞台・オリジナルビデオの宣伝を担当。『島田洋七の佐賀のがばいばあちゃん』『湾岸ミッドナイト』『放送禁止 劇場版(フジテレビ)』『華鬼 劇場版(フジテレビ)』『AKB48メンバー/乃木坂46メンバー主演映画・多数』『吉本興業タレント主演映画・多数』ほか。

2012年春に全国のご当地アイドルを集めて東日本大震災復興イベントをプロデュース。手元に残ったアイドルグループの運営会社、関係者の連絡先リストを活用していくことを思いつき、当時会社員だったが、1人で全国のアイドルをサポートする団体「日本ご当地アイドル活性協会」を設立(当時のグループ数は287組だった)。

2015年に独立。2016年「一般社団法人 ストリートダンス協会」広報委員長就任。2022年に南太平洋証券取引所で株式上場するフィジー共和国の英語教育・留学生サポート「Free Bird Institute Limited」取締役就任。

現在は「テレビ番組やイベントの企画・制作協力」「タレント講師」「社長をタレントにさせるマネージメント」を行う。約10年で国内外600組に「歌」「ダンス」「トーク」「キャラだし」「メディア対策」などを指導。元テレビマンから見る新メソッドが好評を得て、一般企業、専門学校、大手芸能事務所から「実践魅力UP術」講師として呼ばれている。

【担当作品/タレント講師実績】

多数。Wikipediaを参考ください。

https://ja.wikipedia.org/wiki/金子正男

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<取材:文・編集部 / 写真・Mayu Sasaki>

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