【樽井修】奇才プロデューサーの成功術に迫る!兵庫から天下を取ることを誓って東京に上京~「吉本興業NSC東京校2期生入学~同期はガリットチュウ、ハローバイバイ、佐久間一行、くまだまさし」「ピン芸人で活躍~東京03角田からの誘い」「佐川急便で全国4位トップセールスマン」と駆け上がった。5年で500回・累計50万人動員する人気イベンターとなり、芸能事務所、ライブハウスを立ち上げ成功の道に。初めてのファンが今の嫁!?中島みゆきの曲が愛を育んだ。貧困の少年時代から学ぶ未来のエンタメの未来図とは。3時間ロングインタビューを初公開!

実業家でギャグ作家の肩書きを持つ天才プロデューサー・樽井修(47)に3時間を超えるロングインタビューを試みた。芸能事務所社長、ライブハウス経営者、イベントプロデューサー、テレビプロデューサー、映画プロデューサー、ご当地ヒーロープロデューサー、ライブアイドルプロデューサー、ダンススクール&パルクール教室オーナー、川口市商工会議所会員と多数の顔を持つ樽井は、何を考えて成功してきたのか? 吉本興業NSC東京校2期生で同期にガリットチュウ、ハローバイバイ、佐久間一行、くまだまさし。ピン芸人「バカ田バカ男」でTBSラジオ主催「赤坂お笑いD・O・J・O」応募者1,000人から10人の合格者。東京03・角田晃広から「うちに来なよ」と事務所所属。輝かしき芸人生活の源は「人を面白がせる」。人生を変える妻との出会い、小5で失踪した父と貧困生活、1995年1月17日の大地震被災など。常に樽井は苦しさを笑いに変えていった。その後、佐川急便で全国4位のトップセールスマンに昇りつめ、江戸川区ご当地アイドル、芸能事務所社長、西川口に劇場オープン、メンズユニット、イベンターの成功とつながっていく。妻との純愛話、未だに会えていない父の亡霊、神戸で人生半ばで死んでいった知人友人「人はいつ死ぬか分からない」、奇才樽井のバックボンが明らかになっていく。

【中島みゆきのファイト!は、ボクにとって妻からの応援歌です】

――― 樽井さんにとって音楽とは何ですか?

樽井 勇気をくれるものですね。生きていくなかで欠かせない。例えばTHE BOOM「風になりたい」を聞くと18歳のときに付き合っていた彼女の思い出が蘇ってきますし。福山雅治さんの「家族になろうよ」を聞くと母親のことを思い出しますね。あと初めてアイドルを始めたとき全然うまくいかなくて自分のブログに匿名ファンから、中島みゆきさんの「ファイト!」につながるURLが送られてきました。グッときましたね。それからは、やること上手くいって調子にのったんでしょうね。嫁さんと険悪の仲になって別れたいなあと思ったとき、嫁さんから「あのときファイト!の曲を送ったのは私よ」って真実を告げられ。「あ~、別れられないなあ。一生この人を幸せにしなきゃ」って決意しました。そういう意味では人生を変えた1曲です。

――― 忘れられない1曲を選ぶとしたら?

樽井 1993年10月に発売されたザ・ブルーハーツ14枚目のシングル「夕暮れ」です。今聞いても歌詞が心に沁みます。

『はっきりさせなくてもいい あやふやなまんまでいい 僕たちは何となく幸せになるんだ』

世間は白黒つけたがるけど、ザ・ブルーハーツは、あやふやでいい、何者でなくていいって語ってくれ。夢は意味あってないようなもの、諦めてもいいんだよ、うまくいかなくていいんだよって。18歳の樽井少年の心に刺さりました。今までこんなこと言ってくれる大人なんていませんでしたからね。

――― 樽井さんがプロデュースするに当たって音楽作りにこだわることは?

樽井 ビートたけしさんの「浅草キッド」が好きですね。歌ってこういうことかなあって。うまい下手とかじゃなく、説得力っていうか、生きてきた年輪が味 に出て。誰が聞いても沁みるなあって。そういうエンターテインメントを目指していますね。

――― 昨今のライブアイドルについては、どう思われますか?

樽井 そこにいる人を熱狂させられるか? これが全てだと思います。ついつい歌、ルックス、ダンスとか注目されがちですけど。ライブという枠に入ると無条件で楽しいんです。外からとかくいう人は違うと思います。良いアイドルは客が多い、悪いアイドルは少ないでは決めらないと思います。熱狂、熱量なんですよね。FES☆TIVEさんや解散しましたけど生ハムと焼きうどんさんなんかはまだ人気が出る前からライブ出演してもらってましたが圧倒的にフロアを支配していたので任期になるだろうなと思ってみていました。

――― 今後のライブアイドルシーンについて教えてください

樽井 はい。令和に入ってライブアイドルの歴史も積み重なってきてますよね。良いところもあるんですけど、逆に「こうしたら こうなるだろう」って事務所も演者も分かってきて面白味が薄くなってきているかなあと。ヲタクさんから金をもらう形も当たりまえに。なんか、こういうことに対して1つ1つ疑問を持っていく時代に突入するかなあと。実際にボクは別の出口を模索してます。自治体を応援する出口、ライブアイドルを辞めても生計を立てられる出口、お金だけではなく地域や子供たちに憧れられる存在としてバイトしながらアイドルするのもありですし。

 

【趣味は人を面白がせること。あと人間研究です】

―――趣味を教えてください

樽井 うーん。意外に難しい質問なんですよね。趣味は人を面白がせることで。全部そのことを仕事にしてきちゃったので(笑)。しいてあげるなら人間研究ですかね。気になる人に関する資料を読んだり、ホームページ、プロフィールを見て統計として積み重ねていくんです。ある程度たまったら数値化してプロファイリングするんです。この人は、こういう傾向があるから●●な動きを未来するだろうなあと。たまに会いたかった著名人と会って話してみると、それまでに解析したプロファイリング数値と一致してますね、だいたいは。

あと愛猫家ですね!いま我が家で飼っている猫ちゃんは「ポテト」です。癒されます。

――― 今後、仕事したい芸能人の方はいますか?

樽井 あとで経歴のとき話しているのですがダウンタウンさんですね。小学5年で父の失踪で突然、貧乏になって励ましてくれたのが尼崎の笑い。貧乏でもいじめられても笑いに変えるスタイルに少年・樽井修は生きよう!って前向きにさせてくれました。あと電気グルーヴさんです。単身、兵庫から東京でNSCの門を叩いて心細いとき支えてくれたのが電気さんでした。時代を風刺したシュールな音楽、クスっと笑えるセンス、カッコよかったですね。まだ両グループさんとはお会いしたことないので、一度はお仕事したいです!

あと影響を受けたという意味では「はじめの一歩」「スラムダンク」という漫画から努力する人の素晴らしさを学びました。

 

【父の影響で野球好きな幼少時代でした。小学校で野球部なかったので作っちゃいました】

――― どんな家庭に生まれたのですか?

樽井 児童相談所で働く公務員の父・忠輔と、バスの切符を集める公務員の母・清子の子供に生まれました。6つ離れた兄・信一と、4つ離れた朋子の次男坊として、神戸市北区のベッドタウンにある一軒家で裕福な家庭に育ちました。祖父は西宮市立広田小学校の前で長く文房具屋の商いをしていましたね。

――― 学生時代は何に夢中になっていたのですか?

樽井 小学校時代からクラスの人気者でした。あだなは「たるっけん」。キン肉マンの「ブロッケンJr.」から来てます(笑)。昔から筋が通らないことが嫌いで、弱いものいじめが許せない正義感の強い子だったと思います。小学校に入ってからは、そろばんの習い事と、父の影響で野球が好きでした。中日ドラゴンズの「田尾安志」と「樽井修」って名前が似てますよね。(たるいの田とおさむの尾なので)だから勝手に憧れを持ってましたね。小学校に入ったら野球チームに入りたかったんですが、私が通っていた小学校には1年生から入れるチームがなかったので自分で作っちゃいました!阪急友の会っていうのがあって無料でイベントに集まる子供たちを勧誘して。父にコーチとして参加してもらって「筑紫が丘ハンターズ」を結成しました。結局そのチームは小学6年のとき神戸で優勝するほどの強さになりまして。300チームぐらい参加するオール神戸大会で優勝、その後、兵庫県大会に出たことは良い思い出ですね。ボクは1番バッター、キャッチャーで主将を務めてました。

――― 関西育ちの樽井少年は阪神ファンだったんですか?

樽井 いやいや。昔から天邪鬼な性格で。学校のほとんどが阪急か阪神ファンでしたが。ボクは万年ビリという理由でヤクルトを応援していました。長嶋一茂とか池山、広沢。

――― 樽井さんにとって父親とはどんな存在ですか

樽井 あんまり覚えていないんですよね。カメラが趣味で小学校4年まで、ボクが作った少年野球チームのコーチをして手伝ってくれました。一緒にキャッチボールもしていましたし。そんな父親が、小学校5年のとき「釣りに行ってくるわ」と言い残して失踪したんです。今でも生きているのか、死んでいるのか分かっていません。今回のインタビューで家族写真がないか聞かれたんですけど残っていないんですよね。ボクにとって父親がいなくなったことより、裕福な家庭、人を笑わせるキャラを保つことが大変でした。

  

 

【父の失踪で貧乏生活に一転。人気者を演じる苦しさ】

――― 貧乏生活に急変したんですね?

樽井 生活水準は一気に傾き、貧しかったですね。小学校は給食だったのでバレなかったんですが、中学は弁当だったので姉がバイト先のパン屋から持ってくる賞味期限が切れたパンや、食パンの耳が御馳走。バイトがない日は空腹をしのぐために昼食時間は1人外にいました。野球をするのにも道具が買えないのでチームメイトでエースだった同級生・呉島の父から、こっそりグローブ、ユニホームをもらいました。お腹を空かしているとメロンを持ってきてくれたり、焼肉屋に連れて行ってきたり。今でも感謝してます。そんな頃、お笑い好きの兄が「突然ガバチョ!」という番組を見せてくれまして。笑福亭鶴瓶さんのコーナーが人気を呼んで笑いが貧しいことを紛らわしてくれまして。そのあと「4時ですよーだ」で貧乏を笑いにさせるダウンタウンさんを見て「これだ!」って。

――― 転校するんですね?

樽井 はい。神戸市北区の生活水準は厳しく。中学校2年で神戸市垂水区にある公園団地に住まいを変えました。6部屋が2部屋になり、4人でギューギュー生活となりまして。中学に入ってから野球は金がかかりすぎるので断念しました。もともと甲子園球児を多く輩出する「兵庫神戸ボーイズ」からスカウトされていたのですが、それどころではなく。自然と転校してから高校まで不良グループの仲間入りになりました。ただイジメや筋が通らないケンカはしませんでした。もともと校内で口が達者で有名だったので、あらゆる不良から好かれました(笑)。喧嘩というか口喧嘩というか、常に喧嘩を仕掛けていました。

 

【1995年1月17日で樽井の人生が変わった。人はいつ死ぬか分からない…】

――― どこで貧乏、不良生活が終わるんですか?

樽井 あれは忘れもしない1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災。高校3年生で単位が足りず、留年するか?中退するか?の瀬戸際だったんです。留年の合否を決める単位テストが、まさに1月17日の日でした。結局、震災でテストはうやむやになり、無事卒業することができるなり。当時は兵庫区の団地の7階に住んでいたんですけど、震源地からすぐだったので揺れも激しく。窓から見える長田区の家々が倒れていました。水道水が止まってしまったので井戸みたいなところへ行って水をくみにいくんですけど。そこで略奪行為が横行しているんです。さらに同じ中学、高校の知人2人の命が奪われたことで人間は無力だなあと。「いつ死ぬか分からない、真面目にやっても死ぬんだ」って価値観が180度、変わりました。震災がなかったら地元のツレたちとペンキ屋、解体屋をやっていたでしょうね。現場バカというか、ツレたちを笑わせようと。

――― どうして東京に行こうと?

樽井 まず高校を卒業して金を稼ごうと思いました。金を稼ぐには社長になろうと思い、社長や店長みたいな見習いが出来る仕事ができないかなあと考えました。地元神戸のゲーム屋で副店長を募集してまして1年間、社会の縮図を店長から教わりました。結局そこで知り合った永山店長から話術を学び、東京に行くキッカケをくれた恩人になるのですが。まあ、とにかく永山店長は元バーテン出身で喋りがうまく、毎日褒められたいと思って、渾身のエピソードトークを用意して。鍛えられましたね、ま とか、音とか、テンポとか。1年ぐらい経ったら永山店長から吉本興業NSC大阪校を勧められたんですよね。「きっと樽井君なら成功するよ」と。バカでお調子もののボクは、その日に吉本興業に問い合わせしたんですよね。そうしたら大阪校は願書締め切り、次回は1年後。ただし東京校なら間に合うよと言われ、親とか友人に相談することなく願書を提出、オーディションへ行きました。

 ――― よっぽど自信があったんですね?

樽井 そうですね。永山店長から成功するよって言われたから。大阪でも東京でも、どっちも良かったんです。これも震災のときに受けた人生観の変化があったからこそでしょうね。コネも金もないまま4月に東京へ上京。吉本興業NSC東京校に入学しました。同期入学には、ガリットチュウ、ハローバイバイ、佐久間一行などいましたね。特に覚えているのは くまだまさしは今している芸風を貫いていましたね。

 

【吉本興業NSC東京時代~東京03角田晃広~電気グルーヴが僕の人生を変えた】

 ――― NSCで記憶に残るエピソードを教えてください

樽井 当時、自分でいうのもアレですけど何百人いるなかでも尖がっていて面白かったと思いますよ。ボクは漫談とかコントとかより殺傷力が強い笑いが好きで、ギャグを量産して畳みかけてました。よく月村支配人(NSC校の責任者)に怒られましたね。1年中、真っ白な海パンで授業をうけてました。ダンスの授業は記憶に残ってますね。人生で1番楽しかったのは、あの頃もしれませんね。卒業LIVEなんて記憶にも残ってないし、いま思えば笑い好きの猛者の中に口喧嘩1つで特攻していた日々が楽しかったんですよね。ただ1つだけ後悔しているのは月村支配人が言うこと素直に聞いておけばよかったなあと。「1番好きなことで、人を笑わすこと、喜ばすこと」。この言葉の重み、いまの自分ならすごく分かります。

――― NSC大阪ではなくNSC東京でやる違いはありましたか?

樽井 そうですね。NSC大阪なら神戸のツレと話す感じで笑いを考えていましたね。ただ東京校にいると関西弁を使っているだけで一目置かれて、漫才やってよって言われ。入学1ヶ月で関西弁を使うことを封印しました。関西弁だから面白いって言われるのムカつきましたし、大阪でつまんなかったから東京校へ逃げてきたって思われたくなくて。共通語にしたことで笑わせ方も神戸時代と異なりましたね。

――― NSC卒業後、芸人になったのですか?

樽井 はい。1996年、20歳の春からピン芸人「バカ田バカ男」としてデビュー。TBSラジオ主催のオーディション番組「赤坂お笑いD・O・J・O」で応募者1,000人の中から10人の合格者として選出。500人以上の観客が集まるTBSホールを笑いの渦にさせ、いま考えると芸人生活の頂点だったかもしれません(笑)。当時ボキャブラで大人気だった“幹てつや”の後だったんですが、彼よりも多く笑いを取りました!それがキッカケで同じ楽屋だった東京03・角田晃広(当時・プラスドライバー)から「フリーランスならうち来なよ」と、芸能事務所『プロデューサーハウスあ・うん』を紹介してもらいました。ホンジャマカ恵俊彰さんのマネージャーさんが作った事務所で。20歳の夏から所属しました。

――― どんなお笑いが好きだったんですか?

樽井 電気グルーヴさんが好きでした。センスある笑いで。電気さん好きすぎて、『電気グルーヴのオールナイトニッポン』に毎週ハガキを投稿してました。ペンネームは「うんこクチャクチャ噛む男。」で、ボクの考えたギャグたくさん採用されましたね。番組内では「うんクチャ」って略称されてましたが(笑)。ハガキ職人たちがしのぎを削る週刊SPA!の源泉ネタ集「バカサイ」にも紹介されましたね。

 あと当時は事務所対抗戦が主流で『プロデューサーハウスあ・うん VS サンミュージックプロダクション』みたいな。そうなるとボクが大将に選ばれて、ダンディ坂野さんとギャグ対決で闘ってました。

――― その頃の私生活はどうでしたか?

樽井 東京に上京したときは月37,000円6畳 風呂なしアパートだった貧乏芸人からステージやメディアに出始めたら周囲が変わり。こんなボクでも毎月20通以上ファンレターを貰い「かわいい!」って言われてました。ロンブーさんのオールナイトニッポンでも、これから来る若手芸人特集で紹介されたりして主戦場のシアターDに行くと黄色い声が来たり。よくネタ見せ帰りに森田(ボインミサイル)とナンパしてましたね。人生一番のモテキじゃないですかね。実は2個下の女子大生の家に住まいを変えていました。毎日500円をもらって彼女の送り迎えをして。完全にヒモ状態。その女子大生は今のカミさんなんですよね。実はボクにとって最初のファンで売れない頃に「面白い!売れるよ」って応援してくれて。遊ぶことが芸の肥やしって昔気質の芸人でした。遊びまくって消費者金融4社あわせて200万円の借金を抱えまして。

 ――― 借金はどう返したのですか?

樽井 1998年、22歳でステージ数を増やすためにプロマジシャンのもとへ習いにいきました。マジシャンとして“松旭斎ばか男”という名前をもらいまして1日2回の有料ショーに出るほどに。それと野菜宅配・有機野菜を配送する「大地を守る会」でドライバーの仕事をはじめました。1年間続けるんですけど、ドライバーが天職だということに気付き、本格的に2000年5月、23歳で佐川急便へ入社。東京都文京区を担当するセールスドライバーで研修時期は30万円、研修後は40万円お給料をもらいました。その頃は、たまにのステージをこなしながら目の前の借金を返すことで必死でした。

 

【佐川急便で全国4位の営業マンに。芸人で鍛えた愛想の良さが武器となる】

 ――― 佐川急便ではどんなお仕事されていったのですか?

樽井 もともと芸人で鍛えた愛想の良さが変われ、売り上げを伸ばしました。取引先の配送主からは「明るい」「元気がいい」と。上司からは宴会や接待の席に連れていくと必ずやってくれる男と人気を集めましたね。普通の社員なら嫌がるところ、私のとってはワンマンステージですからね。ギャグたくさん見てくれるので喜んでくれたら時間延長もしちゃいますし(笑)。入社から1年たった2001年5月、24歳で月収50万円を貰いました。2年目の売上成績は文京地区でNo.1を取りまして品川プリンスホテルで表彰されました。お笑いだけは自信があって生きてきたボクにとって、人生初めて他で認められた瞬間でした。

2003年、27歳で人生を変える人と出会いました。赤城新店長がボクのいる文京店に赴任してきたのです。この赤城店長がやり手で、その後、取締役まで上り詰める方になります。ボクは営業主任に昇任して部下が7人、バイト3人を率いて、全国4位のトップセールスマンに昇りつめます。全て赤城店長が好きなようにさせてくれたお陰です。この頃は給与が月75万円にUPしてました。

――― 文京地区No.1、全国4位を取った理由を教えてください

樽井 文京No.1は、配送先の新規営業獲得ですね。当時、北朝鮮と小泉首相が訪朝の首脳会談でピリピリしていた頃。文京区に朝鮮出版会館というビルがありまして。日本人が入ることが許されないところ猛営業しました。ボクにとって朝鮮は第二の親父でして。少年野球時代に貧乏になったボクにこっそり優しくしてくれたのがチームメイト友人の父で呉島コーチが在日の方でした。館長にその話を熱く話しました。前例ないことにビルに入っている134業者すべてを佐川急便に変えてくれました。

全国4位は小石川にフィギュア会社「あみあみ」が引っ越してきて牧常務の尽力あってヤマトから佐川に鞍替え。牧常務には可愛がられましたね。ボクの偉そうじゃない態度が佐川っぽくないと(笑)。佐川って大きな会社なので待っていても仕事が来るので、ついつい当時は殿様商売になりがちだったんですよね。ボクはプライドないし、楽しい仕事をしたいの1番なので。牧常務と飲みに行って多くのことを教わりました。

あと赤城店長からは「厳しくないと男はついてこない」とリーダー論を徹底的に教わりました。メンズグループ作るときにも役立てました。

――― 借金は返済できたのですか?

樽井 はい。給与もみるみるアップ。借金はあっという間に完済。2004年、28歳で江戸川区に3,880円の家を購入するまでになりました。2005年、29歳で部下が20~40人率いる係長に昇任、後楽園エリアを任されるようになりました。文京区営業地域では最年少記録の若さだったそうです。給与も月給15万円UP。この頃は月にMAX90万円もらってましたね。佐川のちょっとしたホープとして期待されるようになり、顔が利く人間でした。

2006年、30歳で東京ドーム周辺、トヨタ自動車東京本社を任され、月の売上1~2億円を目標としてました。会社でも責任ある位置を任され、売れない芸人時代からファンだった妻と11月にプロポーズ、12月2日結婚しました。家を建てたときは、父の失踪のこともあって家族の概念が分からずに来てビビっちゃってたんですよね。大きな仕事を任されるようになり、家庭を持つ踏ん切りがつきましたね。

――― いつまで佐川急便で働くのですか?

樽井 2007年、31歳で新人研修の講師に抜擢されました。いろいろな地域に行って1週間ほど講習するんです。例えば「お客さんのことをどれだけ見ているか?」「新規獲得のポイント」「言葉選びの話」「荷物運びだけではない、他にすべき要点」など。元芸人だから分かる人の感情起伏を読み取る力、操縦術を。

あと他人はマネできるか分かりませんがボクは1箇所、1箇所が劇場だと思ってました。みんなに可愛がられたいし、喜んでもらいたい。貧乏な芸人時代はステージに飢えてましたからね。今は超めぐまれてますよねって!

赤城店長の時代は朝礼の時間に売上の高い地区にゲリラで殴り込みをしてました。みんな嫌がるところボクは喜んで。幕張営業店のときは100人の朝礼するところにレイザーラモンHGさんのコスチュームに着替えてハードゲイのモノマネをしました。文京営業店あるある、幕張営業店あるあるを替え歌で歌い、最後は幕張営業課長をいじって「負けないぞ!」って言って帰っていく。毎回爆笑の渦ですよね、そりゃあ、こちらはお笑い芸人ですからね、根っからの(笑)。

そして2009年4月、32歳で退職しました。理由は勤労10年の節目と、当時上司が脳梗塞で倒れ、あおりを受けた任務の重責が激務すぎて。

――― 樽井さんにとって佐川急便とは何ですか?

樽井 佐川急便はボクにとって全てです。人に信用される大切さ、人に信用される術を教わりました。今の配送業界はもっとシビアになってますよね。便利になりすぎて、もっとドライバーの大切さ、大変さを知ってほしいですし、機会をもらえれば伝えていきたいですね。

こういう仕事をしていると、たまたま不思議な人と出会います。父から昔、児童相談所で世話になった人に。面倒見が良かった人みたいですごく褒めてくれて、ボクの知らない父のことを知っていて何か気恥ずかしかったです。いま振り返ると物を扱ってきたことから人を扱う仕事をしたくなっていたのかなあ。ボクにも父の血が流れているのかなあと。

【江戸川議会議員の選挙ポスターみて怒りを感じました。15年暮らす江戸川について本気に考えました】

 ――― ピン芸人、佐川急便の次の人生は?

樽井 SNSに興味を持ちました。佐川急便の時代は忙しくて見ることも、書き込むこともありませんでした。Twitter、ブログ、mixiなんでもやってみました。どのSNSも劇場と思って、全力でボクに関わった人を喜ばせようと思ってやってみました(笑)。その中で顕著に数字に現れたのがアメーバピグを使ってFXに挑戦。所持金300万円が2,000万円に増えました。コミュニティの規模が大きくなりまして。アメブロはFX部門で全国8位までランクインして。「騙されないFX」「成功を狙わない逆張り法」「必勝法と失敗の体験談」などセミナーを繰り返しました。

SNSの可能性を実験した結果、確かなものを感じましたね。この経験がのちのアイドル運営に繋がっていきます。

――― いよいよアイドルに挑戦されるんですね?

樽井 はい。2009年、33歳のとき江戸川区議会議員の選挙ポスターを見ました。58人出馬して44人当選、年収1,200万円、交際費限度額1,000万円まで使える。先生と呼ばれているものの顔が知らないやつばかり。15年も江戸川区に住んでいるのに。本当にこいつらに任せていいのか? じゃあオレが代わりに江戸川をよくすること出来ないかなって。いつもボクが思う逆張り(みんなが行かないところに着目)発想法が浮かびまして。そのとき気になっていた話題が『貧しい子供への教育』『シャッター商店街』『地域活性』『AKB48紅白初出場』『オーディション詐欺』でした。

最初に思いついたのが“えどK B48”の江戸川ご当地アイドルで岡山県の人口に匹敵する江戸川全域をよくしようというコンセプト。さっそくオーディションの準備をしました。3万枚のチラシと のぼり旗を作り、告知活動です。佐川で鍛えた飛び込み営業が活かされましたね。15日で葛西、西葛西、瑞江、小岩と手配り。学校にも置いてもらいました。

――― オーディションは成功されましたか?

樽井 2009年8月、葛西区民会館で行われ、100人応募。当日会場に来た74人全員を合格にしました。これも樽井流の逆張りですね。レッスンを繰り返していくうちに46人になりまして。スターティングメンバ―ですね。普通のアイドル活動だけではなく、地域のごみ拾い、コントや歌謡ショーみたいなことをして幅広い年齢層から支持をいただきました。あと学校に行くのも大変だった貧しい時代を経験しているので、完全無償で運営することにこだわりました。結局1年ほどで解散に至りましたが、20社以上のスポンサーがついたり、江戸川区民まつりに出演させていただきました。

その後、どうしても続けたいというメンバー3名が残り、個人活動を支援することにしました。実はその中で“東京都民ゆめみん”というソロアイドルが予想もしなかったバズリ方をしましてイベント業になる運びになりました。

――― イベント事業のはじまりですね

樽井 2012年春、35歳の秋葉原は新しい箱がどんどんできる時期と重なり、運よく自由度の高いライブ箱と出会えました。最初は神タワーというニコニコ生放送と連動した箱で。最初は数人だった観客がすぐに秋葉原界隈のアイドルファンが噂をかぎつけ満杯に。しばらくして秋葉原のド真ん中にダイコクドラッグが運営するアキドラステージを無料開放する情報を聞きました。自社タレントを中心に「アキバ無銭」と題して10組のアイドルでイベントを打ってみました。集客は300名でまあまあの結果でした。次に毎月第2日曜日、面白いアイドルや、全国のご当地アイドルに声をかけてアンテナショップ化を始めてみました。まさに「えどKB」でやっていた江戸川区活性のときのノウハウを細かく活かせた事例です。集客もじわじわ増えて700~800人。

半年ぐらいがたち集客1,000人が見えたところで勝負に出てみました。「アキバアイドルフェスティバル」と題して無銭と1000円の有料箱を用意しました。これが大当たりで、4ライブ会場合同で行った回は2000人超えしました。

2016年にアキドラは閉店するのですが、それまで最大7ライブ会場合同で行い、4000人を集める巨大イベントとなりました。

――― 不思議な展開でしたね。その後は?

 樽井 川崎クラブチッタで「アイドルキャンプ」をスタート。月に2~3開催して1300人集客。100回ぐらいしましたね。渋谷キャメロットで月14回、新木場コーストで7回「アイドル最前線」を行いました。2016年には夢の日比谷野音でプロデューサーを務めました。BiSHさんに出てもらって素晴らしい景色でした。この頃からアイドルを越えた業界の人とも付き合いが広がり、テレビ東京放送の音楽番組「新shock感」で時代のオーガナイザー代表としてレギュラー出演するようになりました。

5年間で500回のアイドルイベントを打ちまして。観客数のべ10万人を集めました。その功績をテレビ業界の人が認めてくれたそうです。

2017年7月からテレビ東京で音楽番組「東京アイドル戦線」がスタート。番組は翌年TOKYO MXで「超!アイドル戦線」と名前を変えて放送されるのですが、番組が終了するまで企画プロデューサーを担当いたしました。

いろいろなアイドルさんとお仕事していくうちに「生ハムと焼うどん」というセルフプロデュースアイドルに出会って衝撃を受けました。デビュー当時は20人だった観客が50人、100人と増えて、最終的には3,000人の箱を満員にさせるまでに。彼女たちの寸劇を見て正直、悔しかったです。自分がしたかった笑いと音楽の共存がそこにあるなって。「自分のところのタレントほしいなあ」と思いました。

 

 

【メンズユニットの快進撃!西川口に劇場をオープン~小さい子に優しい社会を作りたいです】

――― 芸能事務所復活ですね!

樽井 はい。2016年春にタレント5名でラーメンタレントをスタートさせました。「麺 to you」というユニットで全国のラーメン屋を巡ってSNSを駆使して応援するグループ。すぐにブレイクしてLIVEイベントも満員に。翌年2月に惜しまれながら解散。

その反省を踏まえて2017年5月、20名の大所帯メンズユニット「URAGAWA PROJECT」をスタート。表に出せないことや裏側をファンに見せていくというコンセプト。アパレルブランド HTML03の専属モデルも兼ねた。7月に早くも100人の集客を超えた。『URAGAWA 本気ック!!!!』『URAGAWA ココにコレ』『じゃないっ子どうぶつ』『ウラガワ5』をプロデュース。2018年1月、埼玉県西川口市に「ライブハウス ウラプロ劇場」オーナーとなりオープン。2020年コロナショックの影響をうけて全グループが解散しました。

以後、2021年『WEEK BOYS』デビュー(解散)、2021年9月『西川口清掃忍隊~ド忍GO!』デビュー、2023年7月『シノビスタ』デビュー、2023年8月『ユニコーン2.0』デビューしております。2022年、ダンススクールとパルクール教室を開校しました。

――― 長い時間インタビューにお付き合いしていただき、ありがとうございます。最後に一言お願いします

樽井 こちらこそ感謝します。47年間を一気に振り返ってスッキリしております。ありがとうございます。最後に言いたいことは子供に優しくしたいってことですね。失踪した父親が児童相談所で子供を扱っていたこと、小学校5年から中学2年に味わった金がない貧しさの苦しみが原体験ときているなあと。だからダンス教室は小さい子は無料にしたり、「えどKB」を作ったとき電車賃、レッスン費無料にしました。2021年からハロウィンの日にはタレントと一緒に大量のお菓子を買って、西川口の子供たちに配って歩いてます。400人分用意するんですけど、すぐ無くなっちゃういますね。なんか小学5年のとき父が失踪して寂しがっている樽井少年に向けてやっているのかなって。

――― 小学校の自分に一言ありますか?

樽井 こう伝えますかね。「大変だったねえ。1人ぼっちだったんで。キレイごとでない。電気も切れるし。ゴハンもないし。でもね。引越しをしたらね。貧乏でも幸せが来るよ。落差が苦しかったんだよね。わかるよ、うん。わかるよ」と。

▽プロフィール

樽井修(たるい おさむ)

実業家、ギャグ作家、芸能事務所社長、ライブハウス経営者、イベントプロデューサー、テレビプロデューサー、映画プロデューサー、ご当地ヒーロープロデューサー、ライブアイドルプロデューサー、ダンススクール&パルクール教室オーナー、川口市商工会議所会員、吉本興業NSC東京校2期生、元ピン芸人。元佐川急便トップセールスマン。

1976年7月17日 兵庫県西宮市生まれ、神戸市北区育ち。神戸市立筑紫が丘小学校、神戸市立歌敷山中学校、兵庫県立神戸商業高等学校を卒業し、吉本興業NSC東京校2期生になる。同期の芸人は、ガリットチュウ、くまだまさし、佐久間一行、関暁夫・千葉公平(元ハローバイバイ)、松田洋昌(ハイキングウォーキング)など。

・X(旧Twitter)  https://twitter.com/edogawaidol

・Facebook  https://www.facebook.com/osamu.tarui

・アメブロ https://ameblo.jp/taruiosamu

・株式会社AIFエンターテインメント|音楽・芸能事務所 http://aif-ent.com/

・エンターテインメント ライブハウス URAGAWA PROJECT ウラプロ劇場! http://livehouse.aif-ent.com

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